1960年代,Buchberger と廣中平祐によって独立に発見されたグレブナー基底の概念は,多項式方程式などを取り扱うアルゴリズムを与えるものであり,近年,コンピュータの目覚ましい発達の恩恵を受け,劇的な発展を遂げた.「グレブナー基底」は現代数学を象徴するキーワードの一つであり,その影響は,可換環論,代数幾何などの純粋数学のみならず,離散数学,整数計画,符号理論,統計数学などの応用数学,情報基礎数学においても深く浸透している.
グレブナー基底の研究には「理論」と「実践」の両面があり,相互に密着した深い関係にある.整数計画,符号理論,統計数学などへの実践的な応用では,莫大なデータのグレブナー基底を高速で計算することが必要とされる.すると,グレブナー基底の計算の効率化に関する研究が推進する.計算の効率化は,計算可換代数,計算代数幾何などの分野において,従来は到底不可能であった計算を可能とし,豊富な具体例を供給する.豊富な具体例の解析は理論的な展開を促進する.その理論的な展開は,更なる計算の効率化に有益となるなど,「理論」と「実践」はグレブナー基底の研究を推進する両輪である.
そのような背景を踏まえ,平成18年4月から京都大学数理解析研究所のプロジェクト研究「グレブナー基底の理論的有効性と実践的有効性」が始まっている.当該プロジェクト研究では,純粋数学,応用数学を問わず,グレブナー基底の理論と実践の研究に携わる国内,海外の研究者が一堂に会し,セミナー,研究集会,国際会議などを通し,自由な雰囲気の中で,最新情報の交換,活発な議論と討論を重ねる.それによって,異なる研究領域を専門とする研究者が,グレブナー基底を巡る斬新な視点と問題意識を共有することが可能となり,もって,理論と実践の両面から相互的かつ多角的にグレブナー基底の研究が飛躍的に発展するものと期待される.
加えて,当該プロジェクト研究では,若手研究者を育成する一環として,学部学生,修士課程の大学院生などを含む非専門家を対象とする「グレブナー基底夏の学校」を開催する.本著は,その夏の学校のテキストでもあり,執筆者は夏の学校の講演者である.読者をグレブナー基底の魅惑的な世界に招待し,昨今の研究の潮流と将来の展望を披露することができれば幸いである.
本著の内容を簡単に紹介しよう.序章では,グレブナー基底を扱うときに必要な予備知識を簡潔に集約する.グレブナー基底の専門書を眺めていると,グレブナー基底の概念に到達するまでの道のりが随分と長いような印象を持つ.けれども,グレブナー基底を扱う際の本質的に重要な概念を習得するには,5〜10時間もあれば十分である.ちょっと煩雑なものは Buchberger 判定法の証明であるが,グレブナー基底のユーザーが,その証明を納得する必要はないであろう.
第1章と第2章は,グレブナー基底の計算についての解説である.第1章は,グレブナー基底の計算の効率化と多項式環のイデアルを計算するための実装の紹介である.豊富な具体例を駆使した明快な解説は,計算機に馴染みの薄い読者でも理解することができる.第2章は,パラメーターを含むイデアルのグレブナー基底の計算についての話である.利用可能なソフトウェアの入手方法と使用方法も紹介され,参考文献も豊富であるなど,初学者への配慮が施されている.
第3章と第4章は,統計数学におけるグレブナー基底の担う役割の紹介であり,いま,まさに旬である計算代数統計という斬新な分野へ読者を招待する.実際のデータを解析する統計学に,グレブナー基底がどのように結び付くのかを,統計学の予備知識を全く仮定せず,分割表や高次元配列データという日常的な対象を使い,手際良く解説されており,統計学を学んだことのない読者でも,当該分野の魅惑を十分に感じることができる.
第5章は,整数計画問題をグレブナー基底を使って攻略する技巧の紹介である.グレブナー基底の豊かな世界を認識するためには絶好の話題の一つであり,整数計画問題のアルゴリズム的な諸相も論じられている.
第6章は,「誤り訂正符号」という技術とその理論的な体系である「符号理論」の紹介である.執筆者は Berlekamp--Massey--Sakata 復号アルゴリズムにその名を残す符号理論の大御所である.
第7章と第8章は,計算代数解析とグレブナー基底の話題を扱っている.我が国は,計算代数解析の世界的な拠点である.多項式環のように変数の積が可換になる世界とは異なり,ワイル代数とよばれる非可換な世界の話である.グレブナー基底のD加群の理論への応用として,D加群の基本的な不変量である特性多様体,制限,b関数などの計算アルゴリズム,超幾何微分方程式系などの具体例への理論的および計算実験的な研究が紹介されている.
第9章と第10章は,可換代数と組合せ論におけるグレブナー基底の理論的な有効性の紹介である.グレブナー基底の理論は凸多面体の三角形分割を飛躍的に進展されることに多大なる貢献を果たしているが,その本質が第9章で披露されている.他方,ジェネリックイニシャルイデアルの概念は,多項式環のイデアルの極小自由分解を議論する際の不可欠な道具であるが,その道具の顕著な使い方の例が第10章で紹介されている.
以上のごとく,グレブナー基底を巡る研究は多岐に渡り,しかも,日進月歩の世界である.他方,本著の随所で明らかになるように,グレブナー基底とその周辺には未発掘な秘宝が潜んでおり,若手研究者がその力量を十分に発揮するための魅惑的な研究テーマが埋蔵されている.本著が,若手研究者にとって,その秘宝を発掘するための一冊のガイドブックとなることを願う.
日比孝之