幾何光学の正準理論
山本義隆 著
A5判・上製・336頁・3900円+税
・正準形式の幾何光学---そのシンプレクティック構造---を分かりやすく説明.
・変分原理としてのフェルマの原理の物理的意味を解明.
まえがき
はじめに
はじめに
本書は幾何光学の書物ですが,基本的な内容は,第一には,フェルマの原理
から導かれる正準形式の幾何光学の数学的構造――とりわけそのシンプレク
ティック構造――をわかりやすく説明するものであり,第二に,力学の量子化
とパラレルに幾何光学の波動化を論じることで,変分原理としてのフェルマの
原理の物理的意味を解き明かすものです.通常,幾何光学といえば,光学機器
の設計者でもなければ,その詳細については物理学科の学生が正面から取り組
むテーマとは見なされていないようです.しかし実際には,ハミルトン形式の
その数学的構造においても,その変分原理のもつ意味においても,現代物理学
の理解につながるモダーンな内容を有しています.
幾何光学はもっとも古い物理学の理論のひとつです.たとえば平らな鏡によ
る反射では入射角と反射角は等しいと主張する反射の法則は,古代のピュタゴ
ラス学派の人たちに知られていたようで,紀元前 4世紀から 3世紀にかけての
人であるユークリッドも知っていました.にもかかわらずその幾何光学の数学
は,現在の先端的な物理学の数学にかかわっています.実際,正準形式の幾何
光学は,なによりもそのシンプレクティック構造によって特徴づけられます.そ
してまた,現代の多くの物理学理論の内部に潜むシンプレクティック構造を学
ぶための第一歩としても,幾何光学の正準理論はきわめて有効と考えられます.
一例を挙げておきます.MIT の数学者 Victor Guillemin とハーバードの数
学者 Shlomo Sternberg による 1984 年の書『物理学のシンプレクティック技
法(Symplectic Techniques in Physics)』の冒頭には「シンプレクティック
幾何学――とりわけその旧い名称である〈正準変換の理論〉と称されてきたも
の ――は,数理物理学における尊重すべき話題(venerable topic)である」
とあります.そして同書は,じつに幾何光学から始まっています.実際,同書
の第 1 章は,第1節「ガウス光学」に始まり,第2節「ガウス光学におけるハ
ミルトンの方法」,第3節「フェルマの原理」,第4節「ガウス光学から線形光
学へ」,第5節「幾何光学,ハミルトンの方法,そして幾何学的収差」,第6節
「フェルマの原理とハミルトンの原理」と続き,その後,回折理論,そして量子
化へと議論は進み,その章末は「シンプレクティック幾何学が古典物理学と量
子物理学の多くの分野の定式化において決定的な役割を果たしていることを,
この長い章をとおして読者に確信させたであろうと,私たちは望んでいる」と
締めくくられています.このことだけでも,現代物理学にとってのシンプレク
ティック理論の重要性とともに,幾何光学の学習の意義が垣間見れるでしょう.
幾何光学の現代的意義は,いまひとつの点においても認められます.先に反
射の法則がもっとも古い物理法則だと言いました.一見したところ,それはあ
まりに単純すぎて,それ以上解釈しようがないように思われます.しかし,20
世紀物理学は,それにまったく新しい意味を与えました.一点 Aから出て,鏡
面上で反射して,他の一点 Bに達する光の経路として,幾何光学の書物には,
入射角と反射角が等しくなるようにその二点と鏡の上の一点を結ぶ折れ線が書
かれています.つまり光(光線)は鏡の上の(ほぼ中央の)一点で反射したよ
うに書かれています.それは,光は点 Aと鏡面の一点と点 Bを繋ぐ線のうち
もっとも短いもの(正確には所要時間が近くの経路にくらべて少ないもの)を
選ぶというフェルマの原理から導かれることです.
しかし Richard Feynmanの『光と物質のふしぎな理論』(釜江常好・大貫昌
子訳,岩波書店)には「量子電磁力学は,鏡の中央が光の反射に関して大切な
部分であるという正解を出しましたが,その正しい結果にたどりつくためには,
光は鏡のさまざまな場所で反射するということを信じたり,結局は打ち消しあ
うことになる多数の矢印を足し算したりしたわけです」とあり実際には「光は
鏡のあらゆる面で反射している」と結論づけています.もっとも古い物理法則
としての反射の法則も,20世紀の量子物理学によってはじめてその深い意味が
明らかになったのです.この点からも,幾何光学の学習は現代的な意義を有し
ていると思われます.
ちょっと格好良く言えば,これまで物理学のマイナーな部分のように見られ
てきた幾何光学は,それなりに「知的刺激」に満ちているのです.
本書の原稿の元となる部分は,随分以前に書かれたものです.わたしは 1998
年に朝倉書店から,中村孔一氏と共著の『解析力学 I』『同 II』を上梓しました
が,そのとき,幾何光学もまったく同様に扱えるので,趣味的にではあります
が,いくつものメモを残しておきました.その後,もっぱら科学史の学習に没
頭していたので放り出していたのですが,みすず書房から出版することになっ
た『磁力と重力の発見』『一六世紀文化革命』を書き終えたのち, 2007年頃に,
半分は TEXの練習のつもりで以前のメモを原稿化しておきました.その当時
は,それを書物にする気はなかったのですが,昨年『一六世紀文化革命』の続
きとしての『世界の見方の転換』を脱稿したのち,あらためて原稿をひっぱり
だし眺めてみて,それはそれで面白いし,それに類書も見当たらないので,出
版する意味もあるのではないかと思い直し,数学書房の横山伸氏に相談したと
ころ,こころよく出版を引き受けてくださいました.
以前に『解析力学 I,II』を書いたときには,まだ多少は馬力もあり,数学的
に込み入った部分も面倒がらずに記述するだけの根気もあったのですが,今回
は,数学的な煩わしさを避け,記述をずっとシンプルにしました.面倒であっ
たということもありますが,それよりも,もともと地味な印象を持たれている
幾何光学にたいして,あまり数学的な体裁を与えると,ますます敬遠されるの
ではないかと思ったからでもあります.そんなわけで,物理学の学生に馴染み
やすい記述に終始しました.一般的な理論をいくつもの具体例で説明したのも,
同様の狙いがあります.その意味では,いささか我が田に水を引く類のもの言
いではありますが,本書は『解析力学 I,II』への入門書としても用いうるか
と思われます.
まったくの私的なメモを書物の原稿に整理して書き直すにあたっては,もち
ろん,いくつかの光学の教科書を参考にしました.私はその方面の専門家でな
く,誤解しているところがあってはいけないし,とくに言葉遣いなどに間違い
があってはいけないと思ったからです.もちろん最終的には自分なりに納得し
て書いたものではありますが,それでもまだ誤解が潜んでいるかもしれません.
その点については,読者のご海容を願いたいと思っています.
そんなわけで,原稿執筆の段階で,何冊かの光学の教科書に眼を通しました.
それらすべてに多かれ少なかれ世話になっていますが,あえてひとつだけ挙げ
るとすれば,単行本ではありませんが,雑誌 Journal of Surface Analysisに
2004年から 2009年まで都合 13回にわたって連載された嘉藤誠氏の手になる
「電子光学入門―電子分光装置の理解のために―」ということになります.標
題からわかるように,幾何光学を主題として書かれたものではありませんし,
私自身,そのすべてに目を通したわけではなく,またそのすべてを理解したわ
けでもありません.しかし電子光学だけではなく幾何光学についての記述も詳
しく優れていて,図版も素晴らしく,私には勉強になりました.
(後略)
2014年4月23日
山本義隆