直交多項式入門
青本和彦 著
A5判・上製・208頁・3200円+税
スペクトル解析を通じて数理物理, 応用数学などに幅広い係わりのある直交多項式の豊穣な世界。
数学者による待望の入門書。
まえがき
“直交性(orthogonality)”は数学,特に空間について語るのに必須の概念と言
えよう.本書のテーマは直交する多項式についてである.
1939年初版の直交多項式について書かれた名著
G.Szego:Orthogonal Polynomials
は著者自身によるものを含めて当時までの主にヨーロッパで得られた直交多項
式に関する成果を広範囲に解説している.この本はその後数回の改訂を重ねて
はいるが,今日その内容の斬新さ,豊かさ,面白さにおいて光彩を失っていな
いように見える.私は若い頃
吉田耕作:ヒルベルト空間論
に接する機会を得た.2階常微分方程式の固有関数展開定理を確立するにあたって
自己共役作用素の “密度行列 (density matrix)”を計算する必要があるが,こ
の定式化に成功したいわゆる小平-Titchmarshの定理がこの本にくわしく解説
されている.この定理を確立するために有限区間での境界値問題に付随する
Green関数を区間を広げるに際して現れる R. Nevanlinna,H. Weylらの
“極限点・極限円 ”の考えが有効に使われている.この考え方こそ多くの数学
者を魅了し,解析学としての直交多項式の発展を促した原動力のひとつではなか
ったかと思われる.
本書の内容の展開はある意味で上記 G.Szegoの本のそれに沿っている.後
者の内容および周辺のテーマへの入門的な役割を担うことを意図している.
“直交関数系”は Hermite作用素の固有関数系がもつ基本的な属性であるの
で解析学のさまざまな局面に登場する.中でも直交多項式は変数 x 自身が
“スペクトル”を表す特殊な状況の直交関数系しかも多項式である.それゆえに
比較的扱いやすく,かつ興味ある題材を提供してきたし多分これからもそうであ
ろう.19世紀の P.Chebyshev,C.Jacobi,E.Christoffel,A.A.Markov,
T.Stieltjesらの先駆者に始まり,20世紀初頭の T.Carleman,F.Hausdorff,
R.Nevanlinna,H.Hamburger,O.Perron,G.Szegoらを経て今日整備されて来た
といえる.最近とみに発展しているランダム行列の理論とも関係が深い.
本書に登場する直交多項式はすべて実軸上の関数である.しかしそのStieltjes
変換との係わりを通じて C内のある領域上の複素関数も登場する.実関数,複
素関数両方にまたがった考察を必要とする.そこに直交多項式の面白さがある
と言えるであろう.本書の内容の主なものはまず導入から始まって Stieltjes
測度 (重み関数)に対して定義される直交多項式の構成,直交多項式の基本的な
属性である 3項漸化式,零点分布,Gaussの機械的求積法などを解説する.
次に超幾何関数の一種である Jacobi多項式について説明する.古くから知
られていた Chebyshev多項式,Legendre多項式,Hermite多項式などはすべて
Jacobi多項式に含まれるかまたは合流操作によって得られるものである.そ
こには特殊直交多項式としてひとつの統一的な見方がなされるようになった歴
史的な背景がある.
Jacobi多項式はさらに Sturm-Liouville型の微分方程式を満たす.Jacobi多
項式の仲間に関するものとともにこれが第 2のテーマである.Stieltjes変換の
(Jacobi-Perronアルゴリズムによって生ずる)Pad´e近似は直交多項式そのもの
と深い関係がある.この算法を無限に繰り返すとき Pade近似の収束問題が生
ずる.ここに登場するのが “極限点・極限円 ”の考えである.さらに Stieltjes
測度の決定問題,Hilbert空間である 2乗総和可能な数列の空間 l2(Z.0)に働く
Jacobi作用素の “自己共役性”の問題がからんでくる.そして自己共役な
Jacobi作用素の Green関数が Jacobi-Perronアルゴリズムから生ずる無限連分
数展開によって表示される.これらを解説するのが本書の第 3のテーマである.
その他,古典的直交多項式の次数 n →∞での漸近展開,有限個の帯スペク
トルをもつ Stieltjes測度と周期 Jacobi行列の Green関数の記述,最後に現在
Jacobi多項式の頂点に位置すると考えられている Askey-Wilson多項式および
その Stieltjes変換の満たす 3項漸化式,2階の q-差分方程式,ノルムの明示式
などを紹介する.
特殊関数を一価あるいは多価の解析関数の複素積分として記述した過去の日
本語の書物として
犬井鉄郎:特殊函数
があるが,これらの内容を 1次元のツイスト de Rhamコホモロジーとして
定式化し特殊直交多項式を統一的に扱うことができる.本書は一貫してこの定
式化の下に直交多項式にまつわる基本的なテーマの提示を主眼とした.
もとより本書で取り扱っていないテーマも多々存在する.例えば,一般の関
数を直交多項式系で展開する問題,もっと複雑な重み関数に対する直交多項式の
満たす関数方程式,零点分布についてのさらに詳細な構造, Jacobi行列の自己
共役作用素への拡張問題と上半面で虚数部が正値となるような正則関数に対す
るHerglotzの積分表示式との係わり,戸田方程式など可積分系との関連,Szego
の極限定理,複素平面内の閉曲線上の直交多項式などなど.これらは本書に掲
げた文献などを参考にしていただければ幸いである.
付録には Hilbert空間と線形作用素についてのごく基本的なこと,特に自己
共役作用素のスペクトル分解定理の証明,Gaussの機械的求積法による近似,
Jacobi多項式の多重積分表示と関連が深い Selberg積分,また解析関数の積分
表示の漸近展開を与える有力な方法である鞍点法 (最急降下法)を 1次元ツイス
ト de Rhamコホモロジーの枠組みで捉えることなどを解説した.
直交多項式にまつわる様々な歴史的なテーマが数学の発展を促し現在も私ど
もにその面白さを提供している.読者にとって本書が現代数学の理解への橋渡
しの一助になれば著者の目的は達せられたことになる.
2012年 10月 青本和彦