線形代数学

中村郁 著
A5判・288ページ・本体価格2400円+税

線形代数は具体的にどのような分野でどのように使われているのか? この疑問に答えることができ、おもしろい教科書を目指した。
教材は基本的で本質的に重要なものは避けることなく選んだ。著者長年の講義経験の集大成。

まえがき

 線形代数とは,連立1次方程式を解くための数学である.本書の目的は,そのた めの自然な考え方を解説することである.
 線形代数が大学1年生の基礎教育の題材に選ばれる理由は,それがほとんど全 ての自然科学や応用科学において,しばしば具体的な計算を可能にし,きわめて 有用な研究手段を与えてくれるからに他ならない.数学をはじめ自然科学の重要 な問題のほとんどは「非線形」,つまり連立1次方程式では本来解けない問題で ある.しかし「非線形」の問題は,多くの場合「線形の問題で近似する」ことに よって解くことができる.その意味で,先端の研究にあっても「線形の手法」は 重要である.したがって,数値計算であるか理論的考察であるかを問わず,どん な分野でも線形の問題がすべての基礎である.線形代数を実質的に理解することな しに,高度の科学を学ぶことはできない.
 行列は本書の主題のひとつだが,たとえば,2つの行列の積は,なぜ高校時代 に2×2行列の場合に習ったような積の定義をするのかを考えてみよう.行列の 積は代入計算と一致するように定義されている.学問を学ぶときによく経験する ことだが,複雑な状況を簡潔に表現することは,理解を深めるために不可欠なこ とである.行列の積もそのようなもののひとつであって,そのまま書き下せばか なり複雑なものである.しかし,行列の積を2×2行列の積と同様に定義するこ とによって,代入計算の複雑さがその中に吸収され,複雑な数学的事実が正しく 簡潔に表現されるようになる.だからこそ,私達は行列を用い,行列の積をその ように定義するのである.
 行列に限らず,数学の定義や記法は,さまざまな考察の経験によって人間が選び 取ってきた結果である.およそ私たちが学問を学ぶとき,「与えられた定義にした がって,与えられた問題を解きさえすれば,それで十分である」はずがない.な ぜそのような対象を問題にするのか,なぜそのような定義をするのかをも合わせ て考えていきたいと思う.
 本書は著者の北海道大学での20年余りの線形代数学の講義に基づいている.比 較的難しいとされる抽象的ベクトル空間は,第8章「量子力学の中の固有ベクト ル」では厳密な定義をしないで,計算に入る.著者の経験によれば,この形式でも 学生の理解にはまったく問題ない.第8章では,抽象的ベクトル空間の正確な定 義など知らなくても計算できるし,むしろ,その計算の経験が,一般には難解とさ れる抽象的ベクトル空間や線形写像の行列表示の理解に役立つ.1次独立の概念 は,未定係数法として本質的には高校時代にすでに経験済みである.また,多項 式の空間やさまざまな関数,あるいはその微分や積分などが出てくることで,線 形代数が,ほかの分野とどのようなかかわりを持つかを知ることもできるだろう.
 第7章「マルコフ連鎖」と第8章「量子力学の中の固有ベクトル」の題材は, 固有値や固有ベクトルの現実的な意味を教えてくれる.「量子力学」での固有値は エネルギーであり,固有ベクトルは定常状態ないし安定状態を与える,と思って もそう誤りではない.「マルコフ連鎖」での固有値1の固有ベクトルは安定状態に 対応する.固有値とエネルギーの関係や固有ベクトルと定常状態,安定状態との 関係は記憶にとどめておきたい.また,線形写像の自然な例が,微分作用素で与 えられることにも注意したい.数学固有に見える多くの概念が物理学に由来する こと,あるいは,数学の概念のもっとも自然な例が,しばしば物理学の中に見出 されることを知ることは大切である.
 第14章「CTスキャンと最小2乗解」および第15章「誤り訂正符号」は線形 代数の応用編である.ともにその原理は簡単で,数行で説明可能であるが,コン ピューターのおかげでそのアイディアが大きな力を発揮することになった.これ は数学の潜在的な力を示すよい例であろう.第16章「地震と線形微分方程式」で は,建物が地震波と共振(共鳴)して大きく揺れる原理を説明する.行列の固有値 が建物のバネとしての固有振動数を定め,それが地震波の振動数と近いと共振が 起きる.そのまま揺れ続ければ,振幅が無限に増大して崩壊の可能性もある.こ れも,行列の固有値の意味を具体的に教えてくれる貴重な例である.
 すべての題材を講義時間内に扱うことは難しい.時間の制約に応じて,必要な部 分だけを講義で取り上げやすいように,ひとつひとつの章は短めにした.しかし, 例を中心に話せば,本書の大部分を解説することが可能である.たとえば,第6章 から第8章を著者は合計2講義ですませ,3回目の講義は試験をする.それでも, 少しも無謀ではない.この3つの章についての標準的な試験では,例年3割程度 の学生が満点である.試験をすることで学生は教科書をよく読み,理解も深まる, それが著者の受けた印象である.第8章や第16章は物理学を扱うように見える ので,教官にも敬遠されそうであるが,単刀直入,数学的な部分を解説していた だけば十分であると思う.問題の背景を知りたい学生は,教科書を読んでほしい.  線形代数の教科書は既に多い.著者が学生の頃とはちがって,分かりやすい教 科書も増えた.しかし,教官の間からは「分かりやすいだけで,なぜそれをやる のかが分からない」「線形代数は退屈だ」という声を良く耳にした.その一方で, 「線形代数は汎用性の高い数学である」という指摘は正しい.しかしそれでは,具 体的には,どのような分野でどのように使われているのか?これは著者の長年 の関心事であった.面白い線形代数の教科書を書きたい,それと同時に,こうい う疑問にも答えたい,著者は長い間そう思い続けてきた.
 本書は,そうは言いながらもなかなか腰をあげようとしない著者を,励まし催 促してくれた,多くの友人と出版関係者のかたがたの後押しによって初めて生ま れたものである.本書執筆のきっかけを作ってくださった学術図書出版の発田孝 夫さん,この出版に直接関わってくださった,数学書房の横山伸さんのおふたり にはこころより感謝申し上げたい.
 本書は多くの自然科学の教科書と同じように,基本的には自習の書である.しか し,本書は数学者をめざす学生を対象に書かれたものではない.大学の教養教育を 終えればほとんど数学を学ぶ機会のない,残りの大多数の学生を念頭において書 かれたものである.そのために,証明も説明も努めて平易に書いたつもりである.  和文タイプは,秘書の岡田真千子さん,三好晋さん,阿部綾子さんに大変お 世話になった.また,草稿に目を通し,さまざまな助言をしてくださった菅原健, 秦泉寺雅夫,長坂行雄の3氏と,演習問題をすべて解いて解答の誤りを指摘して くれた服部良平君に,こころよりお礼を申しあげたい.このほか,本書の計画に 興味を示し,励ましてくれた多くの先輩後輩,国内外の友人にも感謝したい.本 書執筆にあたってアメリカでの教科書も参考にしようとしたが,時間の制約で結 局果たせなかった.アメリカの教科書の資料収集に協力してくださった由井典子, 辻井正人の両氏にもお礼を申し上げたい.
 2007年8月
                               著者

目次

目次

第1章 行列
 1.1 行列の定義
 1.2 行列の和と差,定数倍
 1.3 行列の積
 1.4 積の性質
 1.5 行列の転置
 1.6 行列の分割
 1.7 積の結合則
 1.8 付録.回転

第2章 1次方程式と逆行列
 2.1 1次方程式
 2.2 2×2行列による左基本変形
 2.3 2×2行列の逆行列
 2.4 基本行列
 2.5 階段行列
 2.6 逆行列
 2.7 3×3行列の逆行列
 2.8 1次方程式の解法
 2.9 同次連立1次方程式(1)
 2.10 正則行列

第3章 行列の階数
 3.1 3×3行列による右基本変形
 3.2 行列の階数
 3.3 同次連立1次方程式(2)

第4章 行列式
 4.1 この章の概略
 4.2 置換と符号
 4.3 行列式の性質(1)
 4.4 行列式の性質(2)
 4.5 転置行列の行列式
 4.6 積の行列式
 4.7 クラメルの公式
 4.8 逆行列の公式と行列式の展開公式
 4.9 行列式の幾何学的な意味

第5章 行列式の計算と応用
 5.1 行列式の計算例(1)
 5.2 行列式の計算例(2)
 5.3 直線の方程式
    1. 普通の方法
    2. 行列式で書く方法
    3. 行列式で書く別の考え方
 5.4 平面の方程式
 5.5 3点を通る円の方程式
 5.6 4点を通る標準2次曲線

第6章 行列の固有値と固有ベクトル
 6.1 複素行列の対角化の問題
 6.2 複素行列の固有値と固有ベクトル
 6.3 固有多項式と固有ベクトル

第7章 マルコフ連鎖
 7.1 和食・洋食(1)
 7.2 和食・洋食(2)
 7.3 和食・洋食・中華

第8章 量子力学の中の固有ベクトル
 8.1 結晶格子の中の分子
    1. この章の目的
    2. 自然の法則
    3. バネと古典力学
    4. 波動方程式―量子力学による修正
    5. 線形代数の問題
 8.2 調和振動子の波動方程式の固有ベクトル
 8.3 例題
 8.4 水素原子の波動方程式の固有ベクトル
 8.5 付録.水素原子の波動関数の意味―電子雲の密度

第9章 ベクトル空間
 9.1 ベクトル空間の例
 9.2 補足―抽象的ベクトル空間
 9.3 1次独立
 9.4 ベクトル空間の次元(1)
 9.5 ベクトル空間の次元(2)
 9.6 ベクトル空間の基底
 9.7 部分空間の直和

第10章 線形写像
 10.1 線形写像
 10.2 線形写像の行列表示
 10.3 線形写像の行列表示の変化
 10.4 線形写像の核と像

第11章 行列の三角化とケイリー・ハミルトンの定理
 11.1 この章の目標
 11.2 複素行列の三角化
 11.3 ケイリー・ハミルトンの定理
 11.4 固有空間の次元と対角化可能性
 11.5 ジョルダン標準形
 11.6 付録.行列の指数関数eA

第12章 ベクトル空間の内積
 12.1 内積とノルム(長さ)
 12.2 正規直交基底とグラム・シュミットの直交化法
 12.3 直交補空間と直交射影
 12.4 フーリエ級数と正規直交基底
 12.5 複素内積とユニタリ基底
 12.6 直交行列とユニタリ行列

第13章 行列の直交対角化とユニタリ対角化
 13.1 実対称行列の直交対角化
 13.2 エルミート行列のユニタリ対角化
 13.3 一般化のための準備
 13.4 正規行列のユニタリ対角化
 13.5 2次形式
 13.6 指数と2次曲面

第14章 CTスキャンと最小2乗解
 14.1 透過率
 14.2 単純なモデル
 14.3 最小2乗解
 14.4 最小2乗解の存在と「一意性」
 14.5 平均値と最小2乗解
 14.6 最小2乗解と重み付き平均
 14.7 直交射影と近似解の構成法

第15章 F_2上のベクトル空間と誤り訂正符号
 15.1 誤り訂正符号
 15.2 F_2上のベクトル空間
 15.3 長さ2の情報ビットの送信
 15.4 [7,4,3]-ハミング符号
 15.5 [15,11,3]-ハミング符号

第16章 地震と線形微分方程式
 16.1 連立線形微分方程式
 16.2 2階の線形微分方程式
 16.3 地震と建物の振動―簡単な場合
 16.4 地震波と建物の共振(1)
 16.5 地震波と建物の共振(2)

解答

あとがき