第 1 巻 力学と微分方程式


まえがき

 私は予備校で30年あまり物理学を教えてきました.物理学といっても大学受験 のためのもの,通常「受験物理」と言われているもので,そこにはいくつかの制 約――教える側からすればなんとも窮屈な制約――があります.たとえば変位に 比例した復元力をうけた錘の振動周期を問うというような問題が大学入試では頻 繁に出ていますが,しかし本来それは微分方程式を解かなければわからない事柄 なのです.速度に比例した空気抵抗のあるなかでの物体の落下で,最終的に速度 はいくらになるかという比較的ポピュラーな問題も同様です.ところが大学入試 の物理学では微分方程式はおろか,微積分学さえ使わない範囲に限られています. そもそもが力学の原理としての運動方程式がまぎれもない微分方程式であること を鑑みれば,これがいかに不自然な制約であるかはあらためて強調するまでもな いことでしょう.  もちろん「数学を知らないからその範囲で」というのであれば,それはそれで 止むをえないとして了解することも可能です.  しかしおなじ大学入試でも,数学では,すくなくとも理科系の学部では,初等 的にせよ解析学が課せられているのであり,多くの受験生は微積分の計算にそれ なりに習熟しているはずだと思われます.実際,数学の先生への質問やそれにた いする数学の先生からの説明などを横で聞いていると,やれ置換積分がどうであ るかとか,部分積分を使えばうまくゆくだとかが語られていて,結構レベルの高 いことも教えられているようです.入学試験の数学の問題にも,かなり込み入っ た計算の要求されるものが実際に出されています.にもかかわらず,それが物理 学にまったくと言っていいほど生かされていません.実際,力学の説明でほんの 少し初等的な微分演算や積分計算を使えば,それだけで受け付けない諸君が少な くありません.  高等学校や大学の教養課程では,すくなくとも理系の進学希望者や理科系の学 部では,ほとんど百パーセントの諸君が数学を選択していると思います.しかし そのなかで将来数学者になるのはきわめて少数で,大部分の諸君は数学を道具と して使用する立場になるでしょう.にもかかわらずかなりの時間をかけて学習し ている数学が自然科学や工学に使えないのでは,いったいなんのためなのかと言 いたくなります.やはり,現実のさまざまな学問に使用されている道具としての 数学の側面を,初期の段階から数学教育にとりいれ,そのようなものとしての数 学になじませることも重要なのではないでしょうか.解析学を学んでいるはずの 諸君が,ごく初等的な微積分計算を物理学で使用したらそれだけで拒絶反応をお こすというのは,やはりその学習に欠陥があると言わざるをえないでしょう.  逆のことも言えます.もともと微積分や微分方程式は,具体的な問題を解くた めの手段として生み出され発展してきたのであり,それゆえ,ときには物理学や 工学の問題にそくして語るほうが,数学そのものの理解と学習にとっても有効だ と思われます.速度や加速度の概念は,本来的に瞬間的変化率として考え出され たものであり,それこそが微分法の出発点であったと言えるでしょう.「自然と いう書物は数学の言葉で書かれている」と言った 17世紀のガリレオ・ガリレイ以 来,数学と力学は手をたずさえて発展してきたのです.それどころか,多くの局 面で力学は数学に先行し,数学とりわけ解析学を先導してきたのです.  実際,数学史家である近藤洋逸氏は次のように言っておられます.   曲線の接線の決定の問題に由来する微分法は,まったく近代の産物である.   接線を割線の極限としてとらえる動的な方法がギリシャにはなかったからで   ある.こうして,微分法は接線法として,積分法は求積法として,16世紀か   ら17世紀中葉にかけて・・・・・・着実に成長していった.・・・・・・   18世紀の数学は17世紀のそれの延長線上を進んでいく.天文学や力学の提起   する問題と取り組みながら微積分法は成長し,微分方程式や変分法を産みだ   し,こうしていわゆる解析学が形成されたのである.「科学革命における数   学の役割」 (日本科学史学会編『科学革命』森北出版,1961 所収)  とすれば,導関数の概念や積分計算の手法,さらには微分方程式の解法や解の 振る舞いも力学にそくして語るのが教育的ではないでしょうか.  ところで受験の世界では,数学はこのように物理学とまったく無関係に論じら れているわけですが,多くの大学では,その傾向は大学教育にも引き継がれてい るようです.実際,数学科の現状について,お茶の水女子大学の数学科の先生が 書かれた書籍には「カリキュラム上の制約で数学科の人は(ある程度以上の内容 の)物理の講義をとるのは難しい,……こういう大学はほかにも少なからずある ようである」と書かれています.これは武部尚志氏の『数学で物理を』という書 物の前書きの一節ですが,氏は「数学科で物理をまったく勉強しないというのは, ちょっとしたカルチャーショックだった」と率直に記しておられます.数学者の立 場から見ても,それはやはり不自然なようです.  そんな次第で本書は,一方では,解析学と微分方程式論をこれから学ぼうとい う諸君のために,その入門を力学にそくして,つまり力学を素材にとり,力学の 具体例にもとづいて語ったものでありますが,それと同時に,他方では,力学を これから学ぼうという諸君のために,その入門をそれに必要とされる解析学と微 分方程式論の説明をまじえて展開した書物です.  それゆえ本書では,平均変化率の極限としての速度概念から導関数を説明し, 逆に,瞬間的変化率としての速度による無限小変位を積み立てることによって有 限の変位が得られることをふまえて,積分を区分求積法で定義するという行きか たをとっています.これは積分を原始関数にもとづく不定積分として先に定義し ている昨今の高校数学の行きかたとは異なります.しかしこれは,接線法として の微分法と求積法としての積分法という,微積分学形成の歴史的経緯にそったも のであり,数学者の見解はともかく,物理屋の私には,このほうが教育的だと思 われます.こうすれば,すくなくとも数学で学んだはずのことを力学には使えな いのというような奇妙なことはなくなるでしょうし,また微分方程式の説明にも 入って行きやすいと思われます.  微分方程式の部分では,数学の書籍にほとんど必ず記されている解の存在定理 には立ち入りませんでした.それよりも,実際に個々の微分方程式が解けるよう になること,そのためのいくつかの手法に習熟すること,そして明示的な解が求 まらないケースでも,解の大域的な振る舞いや性格が見通しうることが,より重 要と考えたからです.それゆえ,典型的な力学の問題を,さまざまな手法で実際 に解き,またその解の振る舞いをくわしく説明することに重点をおきました.テ ーマは初等力学のさまざまな問題から採ってきました.いずれにせよ,解の存在 定理のようなベーシックな問題は,微分方程式の実際的計算にある程度なじんで, 全体的な見通しがそれなりにできた段階で学べばよいことだと思います.  なお力学は,初等的とは言え,初期解析学の最大の成果であるケプラー問題の 解,さらには,相空間にまたがる大きな対称性とそれにともなう保存量(第1積 分)の存在までそれなりに丁寧に説明しておきました.  読者対象としては,高校の高学年から大学の教養課程の学生を想定しています. 高校生にとっては少々難しいかもしれませんが,しかし丁寧に読めばわかるよう に書いたつもりです.すくなくとも学校で学んでいる数学以上に特別な予備知識 を必要とはしません.ただし,本書は受験のための書物ではありません.本書は, これを読んで後,興味をもった諸君がさらに力学なり微分方程式論なりの進んだ 学習に意欲的にチャレンジしてもらいたいと思って書いたものです.この点につ いて若干の所感を語らしてください.最近,受験生や大学生で,勉強と言えば受 験のための勉強,単位をとるための勉強しか知らない諸君が少なくないように見 受けられます.「ゆとり教育」の結果であるのかどうかはわかりませんが,とも あれ「ゆとり教育」が何年か続いたのちに「ゆとり」をなくしてしまった諸君が 大量に生み出されたのだとすれば,笑えません.数学や物理学の学習は,たとえ 目の前の試験には役に立たなくとも,それ自体が面白いのだということが若い諸 君にわかっていただければ,それだけで本書を書いた目的が達成されたと思って います. 2008年 8月                                 著 者

目次

目次 第1章 運動の記述と微積分入門   1.1 速度の定義と導関数   1.2 速度から位置を求める:区分求積法   1.3 加速度の導入 第2章 微分法と積分法の一般的な話   2.1 微分法      2.1.1 微分法の諸定理      2.1.2 導関数と関数の増減      2.1.3 微分法の諸公式   2.2 冪関数・指数関数・対数関数・三角関数   2.3 定積分と不定積分 第3章 力学と微分方程式入門   3.1 運動方程式とその積分形(1次元の場合)   3.2 地表での物体の落下運動   3.3 微分方程式との出会い   3.4 仕事とエネルギー   3.5 保存力とエネルギー積分   3.6 相空間上での記述 第4章 調和振動,減衰振動,強制振動   4.1 調和振動の方程式とその解   4.2 不動点とその近傍の運動   4.3 減衰振動   4.4 テーラー展開とオイラーの公式   4.5 強制振動 第5章 2次元・3次元の運動   5.1 ベクトルの導入   5.2 速度と加速度――2次元・3次元への拡張   5.3 偏微分と方向微分   5.4 力学原理      5.4.1 運動の第1法則と第2法則      5.4.2 運動の第3法則と運動量の保存      5.4.3 仕事と位置エネルギー   5.5 円運動      5.5.1 円運動の方程式      5.5.2 見かけの力としての「遠心力」      5.5.3 鉛直面内の円運動      5.5.4 相空間(θ,θ.)での記述   <−θ.は、上にドット付です。   5.6 回転する円周にそった運動   5.7 電磁場中での荷電粒子の運動      5.7.1 一様な磁場中の運動      5.7.2 直交する電場と磁場の中での運動 第6章 ケプラー運動と等方調和振動   6.1 中心力のもとでの運動      6.1.1 角運動量とエネルギーの保存則      6.1.2 2次元極座標の導入   6.2 2次元等方調和振動   6.3 ケプラー運動   6.4 双曲線軌道について   6.5 2次元等方調和振動とケプラー運動をめぐる不思議な物語